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zoom RSS ALWAYS 上井草の夕日 2

<<   作成日時 : 2009/06/28 10:28   >>

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平成の繁栄から取り残された町、上井草への「愛」のPostは<2>のアップが遅れてしまった。<1>では商店街のことを紹介するといったが、ちょっと趣向を変えて知られざる歴史の紹介と行こう!

オールド・ベースボール・ファンならこの人が誰か、知っているだろう。そう、巨人の“伝説のピッチャー”沢村栄治である。この写真は、ぼくとMAXの散歩コースにある「上井草スポーツ・センター」のプールへの通路に張られている。どうして、伝説の投手の姿が見られるかと言うと、実はこのスポーツ・センターの建てられた場所は、ぼくが高校生の頃まで立派な野球場だったからなのだ。
「上井草球場」なんて名前は相当の野球好きでも知っている人は少ない。「ドカベン」か「タッチ」に出てくる球場ですか?なんて聞かれそうだ。(ちなみにあだち充さんの仕事場は富士見台にあって=MAXと1年半暮らした家から5分=千川通りから道路一本入ったところ。実在しない千川高校はこの環境からの命名である)
ぼくが通った高校は硬式野球部がなかったが、軟式でも春・秋の公式戦や新人戦はこの球場が使われた。(もちろんここだけではなく、組合わせで上井草球場使用となると喜んだものだ)後楽園や駒澤(東映フライヤーズのフランチャイズ・蚊の多い球場だった)、南千住の東京球場(大毎オリオンズの本拠地)よりは地味だったが、内野のグランドには微妙な傾斜が作られ、スコア・ボ−ドもあった。関西だったら、甲子園や大阪球場は使えないが藤井寺は使える、といった感じになるのだろうか。
野球部のもの知りが、
「この球場、戦前はプロ野球が使ってたんだぜ」
と、教えてくれたが、どのチームがフランチャイズだったのかは知らないらしい。
いつの間にか球場はなくなり、戦前のことを知らないままに何十年もが過ぎ去った。
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この写真は現在の上井草スポーツ・センター正面入り口である。
プール、体育館、4面の草野球場、ジョギング・コース(無料)、テニスコート、プール、ジムが安く使えて、カフェもある。杉並区立だが、それ以外の区民との差別はない。
ある日、MAXの飲み水補給のためプールへの通路を抜けたら、この写真が目に入ったのだった。そして、そこには上井草球場とスポーツ・センターの沿革も書かれていた。

西武が高田馬場から川越まで、鉄道を開通させたのは1927年(昭和2年)、関東大震災から4年後のことであった。震災から復旧が進み、東京の人口は大打撃を受けた東の下町から、西に移動する。そこに着目した堤康次郎(清二・義明の父)は川越までの西武鉄道を起業。「都の北西」は一挙に便利なエリアとなっていった。
西武は乗客を増やすため、松林・雑木林、畑の広がる上井草の丘陵地に400mの陸上競技トラックと4面のテニスコートを作ったのだが、これが球場〜スポーツセンターへと至る出発点である。そこが野球場となったのは1936年(昭和11年)のことである。この年、職業野球(プロ野球)の「東京セネタース」が結成され、西武鉄道はその本拠地としてトラック、テニスコートを撤去し、立派な野球場を作ったのだ。
両翼は100.6m、中堅118.9m、収容人数29、000人(昭和24年に拡張され45,500人に)の堂々たるもので、東京セネタースのスター選手苅田久徳が大活躍した球場であった。入場料は高田馬場から上井草までの電車賃込みで50銭。伝統の巨人・阪神戦もここで行われ、豪腕沢村栄治がスタンドをわかせたことがあるそうだ。昭和12年(1937年)に後楽園球場ができたので、公式戦の回数が減ったが、延べ83試合が行われたのだった。
戦時中は憲兵隊が常駐し、軍需会社がグラウンドに穴を掘り資材・油缶などの保管場所として使われたが、戦後はいち早く球場として復旧。終戦の翌月には復興し、区民大会や東京都民軟式野球大会が行われたというから日本人の復興のエネルギーが凄かったことが分かるだろう。また、上井草球場では米軍厚木基地と杉並区選抜の親善試合や、神宮球場が米軍に接収されていたため戦後しばらくは東京六大学野球や高校野球にも使われていた記録も残っている。
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1959年、東京都はこの球場を西武鉄道から買収し、都民の体育施設として整備したのだが、東京オリンピックの開かれた1964年に利根水系の水道水(朝霞に浄水場があった)の安定供給のため、上井草に18万トンの配水池を作らなくてはならなくなった。かくして、上井草球場は取り壊され日本の野球の草分け的な歴史建造物はあとかたもなく消えてしまったのである。
その後、オリンピック後の都民のスポーツ熱の高まりを受け、1967年に配水池の上に4面の草野球場が作られて上井草野球場が復活し、やがて杉並区に移管。1995年から3年間の改築工事を経て現在のスポーツ・センターが完成した。
そしてスポーツ・センター北側は日本一・早稲田ラグビー部の合宿所とグラウンド。こどものためのラグビー教室が週末に開催されている。
南側には井草中学があり、沢尻えりか、松田兄弟がヤンキーな3年間を過ごしたことは地元の人ならみな知っている。余談であるが・・・。
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このポスターの雰囲気がそのまま残る駅舎、商店街は「昭和の風情」の歴史遺産。あまり無機的な都市計画などしないで、日々の暮らしのエリアであってほしいとひそかに思っているのだ。

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内 容 ニックネーム/日時
IKEGAMIさんと野球というのが、私にとっては意外な取り合わせに思ったのですが、よく考えてみれば、昔(なんていうと怒られるかも~)の男の子達にとっては、野球はナンバー・ワンの遊びだったのでしょうねぇ。相撲なんかもとりましたか?藤井寺球場はもう壊されて、私立の学校が建とうとしています。自分では、そんなに球場に愛着がなく、でも外国で日本人に会うと、藤井寺球場のあるところ、で通じることが驚きでした。日本の人は野球と密着して生活しているように見えます。家族ぐるみで楽しめるからもあるんでしょうね。IKEGAMIさんの近所はいろいろと楽しめるスポットが満載でいいなぁ〜といつも思ってます。
chi-B
2009/07/01 02:35
chi-Bちゃん、どうもです。
ぼくは野球少年でした。ポジションはショートかピッチャーで、5年生くらいまではショート・ヒッターでしたが身体が大きくなったら(と言っても平均身長ですが)大物打ちに目覚めました。少年野球大会は都大会出場くらいで、大したことはありません。
ぼくの子供の頃は、ゲームなんてあまりなくて、エポック社の野球盤が出た時は興奮しましたね。だから外の遊びはひたすら野球。そんな貧しい子供時代だったけど、平和で楽しい日々でした。
IKEGAMI
2009/07/01 09:02
いきなり沢村投手の写真とは渋いですねえ!
東京球場は一度だけ行ったことが有りますが、上井草球場は
行ったことがありません。夫は何度か行った事があるようです。ショボイ球場だったと申しております。
Part1とPart2,熟読させていただきました。
祖父と叔母がIKEGAMIさんの隣に住んでいたなんて考えられない偶然ですよね。私の子供の頃は千川通りは川でした。
平成6年に叔母が他界してから全く行った事が無かったのですが14年ぶりに昨年お邪魔してみたら、大分変っていましたよ。駄菓子屋さんと駅から千川通りに向かって左側の「藪」がそのままなのには感動しましたが。
masae
2009/07/01 10:55
masaeさん、コメントありがとう。
そうか、ダンナはぼくより半世代前の人だから上井草球場知ってるんですよね。叔母さまの家、たぶん千川上水に橋をかけて玄関に入るスタイルだったんじゃあないかな。上水沿いのお屋敷の前は桜並木で、それはそれは美しかったと昔を知る人が言ってました。
野球場は確かにショボかった。後楽園ができてからはプロが使わなくなったので、戦前の設備のままでしたからね。でも、校庭とか河川敷の草野球場しか知らない少年にとっては魅力的なグランドでした。
また遊びに来て下さい。
IKEGAMI
2009/07/02 08:35
きっとどこのどの建物にも歴史があるはずですが、拙宅附近は新しいものばかりを追い過ぎて、「その前」がかなりわかりにくくなっています。かくいう私もバブルでかわって、バブル崩壊で更に様相がかわった街をながめてそこが以前は何だったか全く思い出せなくなりました。
私はずーっと一塁手でした。体と声が大きいのと、いつもペースが一緒なのことと、何より鈍いから!
J・AGE
2009/07/06 18:58
Jさん、コメントありがとう。先ほど、メール送ったところです。
ふーん、やっぱり野球少年だったんですか。Jさんのイメージって、インドア派なんだけどなあ。
ぼくは西が丘サッカー場(かつては被服廠で、一時進駐軍が入ってました)の近くで育ったんですが、都電に乗って後楽園球場によく行ってました。
Jさんのお住まいのエリアは、機動隊と闘った苦い記憶があります。うーん、65、6年ですね。
IKEGAMI
2009/07/07 00:30

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