政権交代への思い

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衆議院選挙はマスコミの予想通り「民主、地滑り的圧勝」、「歴史的政権交代」という結果になった。まあ、自民党1党支配の政治状況に変化が起きたことは悪いことではない。やっと議会制民主主義の基本である民意による政権の交代ができたことは嬉しいことだ。投票日の夕方、犬仲間が集まりバーベキューで盛り上がったのだが(選挙とか政治とは関係ない楽しい集まりだ。仲間には体制派からアナーキストまでいるので、政治の話は自発的に避けている)、投票場の混雑ぶりが話題になった。上の写真は投票待ちの列であるが、みんな列ができるほどの選挙は派に初めてだと言っていたのである。
列が学校の廊下を折り返し、校門の外まで並んでいるのを見てこれは投票率が軽く70%を超えると思っていたのだが、最終的には69%くらいらしい。まだデータを詳細に見ていないので分からないが、都市部(ぼくは東京だから都市部の住民である)の投票率が高かったのではないだろうか。新聞社の出口調査によると、支持政党は自民と答えた人は54%と高かったがその30%が民主党に投票したというのだ。つまり自民党は、選挙に行った人の15%くらいにしか投票してもらえなかったということで、これは自民党政治に対する批判がいかに強かったかを物語るものだろう。これでは勝負にならない。かくして「結党以来の歴史的惨敗」になってしまったのである。

日本人は隣人と別の行動をするのが苦手な国民性の持ち主だ。それを育てたのは「親に孝、君に忠」という封建時代からの道徳観と、異端者に対する「村八分」という制裁だと言えるだろう。だからこの国には市民革命の歴史がないし、それゆえ民主主義の基盤も脆弱である。50年以上も同じ政党が政権を執り続けるなんていうのは、世界中のどこを探してもないだろう。(あ、パラグァイが60年以上右派政権によって好き勝手にされてきたが、フェルナンド・ルゴ氏が「愛国同盟」を組織。生命の危機にも屈せず、政権を交代させていた)
だが、オーストラリアの政権交代の内容を知っているぼくは、今回の日本の政権交代は手放しで喜べないのだ。景気の悪化からの回復の遅さ、経済格差の拡大、弱者の切り捨てという自民党政治に愛想が尽きた、という民意は当たり前のことなのだが、それだけで(それが最も大切ではあるが)政権を交代させるという選択になにか貧しいものを感じてしまうのだ。要するに、自分の生活が楽になればよし、自分の会社が儲かればよし、という素朴すぎるエゴイズムが嗅ぎ取れるからである。
オーストラリア保守党のハワード党首は、高い経済成長を成し遂げて国民生活を豊かにしたのにも拘わらず、イラク派兵と地球温暖化(京都議定書の批准)への無策から国民によって「NON」と言われてしまったのだ。シンプルに考えればオーストラリア国民は自国の利益よりも「地球人としての正義」を優先させることを選んだと言えるだろう。(このことは「きっこのブログ」に詳しく書かれている)ぼくははたして日本人が国民の総意として、このような選択ができるかはなはだ疑問なのだ。

政治家たちはなにかというと「国益」という言葉を使う。新聞・雑誌・放送のメディアも、なんの疑問も持たずにこの言葉を日本に「恵みをもたらしてくれる」ありがたいものとして用いている。だが、よく考えてみればこの「国益」こそが、近隣諸国や国際社会の中にフリクションを生み出し、戦争・紛争に発展する原因になっているのではないか、と思うのだ。
もちろん、政治家が国民の生活を豊かにして、利益を生み出してくれるのは「あったりマエダのクラッカー」であるが、この今という歴史的時間を同時に生きているあらゆる人々が受益できるような志を持ってこそ、政治家と言えるだろう。一昔前は「天下国家の計を思ってこそ政治家」と言われたものだが、いまは「地球の行く末を」と置き換えたいものだ。

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