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help リーダーに追加 RSS ランダム・ダイアリー 9月16日 

<<   作成日時 : 2007/09/16 22:56   >>

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これまで「日録」というカテゴリーで、日記風に日々の記録をしようと思ってやってみたのだが、どうも「日記」というのは小学生の頃から肌に合わない。夏休みの絵日記だって最後の2、3日で必死にまとめ書きしたくらいだ。
7月、8月の日録を読み返すと、ほとんど犬日記である。まあ、MAXの飼育日記と考えればいいのかも知れないが、もう少し自分の想像力衰退を食い止められるものにしたいので、「日録」は発展的解消!もともと、「ランダム・ダイアリー」は思いつくままに書くスペースにと思って作ったカテゴリーなのだから、こちらをあまり重くせずに再稼働させることにしよう。

というわけで、今日は昔話をちょっと。
このところ政府自民党が新聞ネタを毎週のように提供してくれるので、いきおい新聞を隅まで読んでいる。うちは朝日なのだが、ぼくは夕刊の小さなコラム「素粒子」が大好きだ。新聞らしからぬ結構ブラックなユーモアのセンスもあって、笑えるのである。「素粒子」は最後に必ず俳句が一句紹介されていて、安部辞任表明の直前、9月10日の俳句は、
「この夕べ力つくせり法師蝉」 森澄雄
であった。この俳人、実はぼくの通っていた高校の教師なのだ。父が俳句を作っていたので、森澄雄が加藤楸邨が主宰する同人誌「寒雷」の編集長をしている俳人であることは知っていた。だが、学校で飄々と世界史を教えている三木のり平に似た(本人は「似とらん!」と否定していた)森澄夫(こちらが本名)先生と「寒雷」の森澄雄が同一人物だとは思いもよらなかったのである。
都立豊島高校では生徒会が1年に1回、小さな雑誌を出していたがそこに教職員の俳句を掲載する見開きページがあった。そこに「澄雄」の表記の句が載っていた。
「父の死顔そこを冬日の白レグホン」
「月赤き野分や心父による」
これを見たぼくの父は、「やっぱり寒雷の森澄雄だよ。句の発想が人生派三羽烏のひとりである楸邨を支えた編集長・森澄雄そのものだ。他の先生に聞いてみればわかるよ」と言うのだ。担任が国語の教師だったので聞いてみると「そうよ、森先生は有名な俳人。そうは見えないけどね」とのことであった。
そこで、ぼくは中学生の頃に作った自分の句を手に、社会科教務室の森先生を訪れた。
「おー、なんじゃ。俳句作るのか。いいよ、見てあげるよ」
気さくにぼくの句を批評・添削してくれたのだった。
「そうか、オヤジが句を作っとるのか。誰のところぞ?」
松村巨楸だったと思いますと答える。
「そうか、『石楠』か。まあ、あそこはみんなオーソドックスだわ。ぼくはもう少し生々しいな」
そこで、混ぜ返した。
「なにしろ白鳥俳句ですからね、先生は」
すると森のり平先生はガハハと笑い、
「1年坊主から白鳥俳句なんて言われると思わんかったなあ!」

以後、ぼくは一度も授業を受けていないこの教師に目をかけてもらい、何度も東大泉のお宅にお邪魔させていただくことになった。
「除夜の妻白鳥のごと湯浴みおり」
と詠まれた白鳥夫人のシュークリームをご馳走になりながら、人生派(中村草田男、石田波郷、加藤楸邨は三羽烏と言われていた)俳句の魅力と表現の可能性とかを教えていただいたものだ。あるときは授業中の教室に突然入ってきて、ぼくの席に。小声で「きょう島尾(敏雄)が来るから、きみもうちに来い」と言うのだ。
こんな出鱈目なことが許されたのは昭和30年代という時代によるものか、それとも豊島高校のリベラルな校風ゆえだったのか。旧府立第十高女だった豊島高校には美しい畳敷きの作法室があったのだが、終戦直後に奉職した森澄夫先生は何人かの教師とそこを仕切って暮らしていたのである。隣りの仕切りで暮らしていたのが国語の福田先生(詩人の那珂太郎さんである)。毎晩のように文学論を交わしていたそうだ。後年、那珂さんと会った時に森先生の生徒ですと言ったら、瞬間、優しい目となって「そうだったの。ぼくが転任してからの生徒なんだね。うーん、みんな貧しかったけど楽しい日々だったなあ」と、豊島高校時代を懐かしんでおられたのだった。

思い返せば、ぼくほど師に恵まれた人間はいないのではないかという気がする。高校に入ったら森澄雄がいて、大学に入ったら粟津則雄、宗左近(古賀照一)、山本太郎(若手俳優の太郎ではない。故人となった詩人である)という碩学から直にいろいろと教えていただくことができたのだ。
仰げば尊しわが師の恩、なのであるが、その恩に報いることを何一つしていない自分をちょっとばかり反省する暑い夏である。


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コメント(6件)

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うわぁ、いきなり 文學少年成長日記になってるっ!

しかし、都立豊島高校に限らず巷の学校にもそれぞれ個性的な先生がおられましたよねぇ?今と違って。私も高名な人ではなかったけれども、先生には恵まれた生徒だったとおもいます。
教育委員会のトコロテン方式、ハンコでないと許されない今の教師では絶対無理であろうディープな“心”のやり取りがあったように思います。
torigen
2007/09/17 11:41
いつの間にか、皆と同じことをするのが良いこととなって、そこからOUTしてる者がいじめのターゲットになっちゃった。ぼくが子供の頃だって、学校や政府や法律は「同じこと」を強いてきました。でも、少なくともそれに逆らうことが「カッコイイ」ことでした。そしてそのフリクションが、
>ディープな“心”のやり取り
に繋がったと思うのです。
現在の学校の教師はヒドイ。でも、親たちはもっとヒドイ!
教師2人が読売文学賞の受賞者なんだから、恵まれた生徒でしょうね、ぼくは。
IKEGAMI
2007/09/17 12:09
私、IKEGAMI様の後輩になり損ねたようです。
迷いに迷って私学に決め、豊島高校辞退したので。なんて恵まれた高校時代をお過ごしになってらっしゃるのでしょう。私は浪人時代の予備校の先生(とうに還暦を過ぎたおじいちゃん先生でした)が目を輝かせて「学ぶと言うのは楽しいことです」と仰っていた姿に刺激され、「こんなお爺ちゃんがコレだけ楽しいというのだから、私も学ばん」と思った若き日があります。偏差値やらなんやらに関係ない、学んでみたいという純粋な欲求に基づいて学んでみた(お勉強ではなく)初めての経験でした。そしてその後出会った恩師は「幸せなら手をたたこう」の作者です(笑)学問を続ける事を応援してくださったにもかかわらず、全く異なる道を選択した不肖の生徒な私ですが、魅力あふれる、質の高い大人(カッコイイ大人)と出会えた事は、大きな財産であったと今、改めて思います。彼らとの出会いが、今の自分を形作っていますもの。
chobimama
2007/09/19 20:00
Toriさん、chobimamaさん、いらっしゃいませ。
ぼくが高校に通っていた昭和30年代後半(なにしろ東京オリンピックが3年生のときですから)は、まだ「戦後」がいたるところに残っていました。小学校に上がる前に住んでいた清瀬の雑木林には米軍が落とした焼夷弾のケースがゴロゴロしてましたからね。
豊島高校はまだ木造校舎でした。なにしろ元女子高なので3月には作法室に立派な段の雛人形が飾られるのです。共学なんだから5月・端午の節句のために鯉のぼりを買ってくれといったら、予算がないという答え。模造紙を貼り合わせて鯉のぼりを作り国旗掲揚塔に揚げちゃいました。教師たちはそんなアホなことをする生徒が面白かったらしく、いつも一緒に遊んでました。
高校時代の財産は、岩波新書を1日1冊読むと決めて、5,60日間続けたことかな。様々な学問のポジションを俯瞰することができました。(つづく)


IKEGAMI
2007/09/20 00:36
(続き)
chobimamaさんの恩師って、作詞の木村利人さんですか?(改詞・小林純一っていう説もあります)確か、中田喜直さんが編曲したバージョンもあった気がします。
学ぶことへの純粋な欲求を満たせるシステムは政府の教育改革なんかじゃあ絶対にできません。

IKEGAMI
2007/09/20 00:38
さすが、ご存知でしたか。そうでございます。先生の最初のゼミ生でした。結婚式で歌って下さいね♪って固く約束して卒業したのですが、縁だか運だかに見放されたのか、はたまた努力やら魅力やらが足りないのかで未だ歌って戴いてません(苦笑)
システム以前に、純粋な欲求を育む土壌すらない気がいたします。教育以前に、ちゃんと背中で語れる大人がいるのか?に尽きる気が自分の10代を振り返るといたします。その点で自分は恵まれていたと思います。少なくとも自分も自分より年若な方にとって「信頼に足る」大人でありたいと思っていますが、どうかしら???
chobimama
2007/09/22 14:16

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